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コスモス会は、五井先生提唱の「世界平和の祈り」を実践しているグループです


世界人類が平和でありますように

 七夜法話 人間は元々大丈夫な存在   尾崎元海



 誰でも統一したがっている

 ここで言う統一とは、本心・神我という真実の自己の本住の世界であり、一なる神(絶対神)の世界に戻るということで、一般に言う精神統一とは全く次元が違うということはお分かりだと思います。「世界平和の祈り」の中に自己の想いを投入しておられる人は、知らずうちに神様のみ心深く入っていくのですが、実は一般の人でも、その人の魂の導きによって、普段の業想念波動の世界から安らぎの世界へ入っていくことを日常生活の中で取り入れているんですね。
 心や体が疲れたりマンネリ化が続いたりすると、そこから抜けようとしますよね。世のお父さん方が、土曜、日曜になると、早朝に起き出して静かなゴルフ場に行ったり、海や川に魚釣りに行くでしょう。最近では、「山ガール」と言って女性がたくさん山に登ったりもしていますよね。年配の人は家庭菜園や庭の手入れなどで、植物や土に触れます。又、良き音楽や素晴らしい芸術作品に接して、ゆったりした安堵(あんど)の世界、静かで澄んだ世界に入っていくんですね。これらは皆、本人が気付かないうちに本心の世界に戻っていこうとしているんです。そうすることによって、明日への英気を養っているわけでしょう。こういうことは、誰もが体験で分かっているわけです。只、そういうことが自己の本体である生命・本心の世界に戻らんとしていることを自覚していないだけなんですね。
 山に登って朝日を拝むとか、海に沈む夕陽を見て感動するとか、大空や雲の流れを仰ぐとか、動物の無邪気な姿に接して心が癒されるとかも同じですね。それらは全て、神様の真・善・美・愛・無心の響きに合一することでして、実体験として大半の人が実感しているわけなんです。それら一切が神の現れなんだと、ほんの少し観点を変えていけば、どれだけ多くの人が素晴らしい智恵を受け取っていくでしょう。
 人間が大きな進化をしていく上で大事なことは、小智才覚や理屈から離れてありがたいなあ≠ニいう、人間根本の生きる基本の心を養っていくことなんですね。理屈ばかり捏(こ)ね回している所からは、人間を本当に幸せにする創造的な知恵は生まれません。生きていることこそが無条件にありがたい≠ニいう思いから、本物の姿が現れるんですね。それこそが、自分が生き生きし、他を生かし、組織を生かし、国家を生かし、世界中を生かす唯一の、最も易しい方法なんですね。

 本来の水に流すとは

 
 俗にこれまでのことは水に流して≠ニいう言葉がありますよね。どこの国でも同じ意味合いの表現があると思いますが、日本人は良くこの言葉を使います。これは良き方向に使えば今後の発展に繋がるでしょうが、本当に全て水に流せているのでしょうか。表面的にそう思っても、本当は流れ去っていかないで、心の奥、潜在意識に想いを溜め込んでいるだけなんですね。様々な人や物事との係わりから生ずる一切の感情や想いというものは、肉体人間が如何に想いを強めても無くなるものではありません。一時、無くなったように感じているだけなんですね。
 それらを浄め去って下さる唯一の働きは、自己の内奥に働く生命(無限光の光)、その人を守り給う守護の神霊の慈愛の光、天地万物に働く清浄無垢なる大愛のエネルギーなんですね。それらを実感して本体の姿に戻った人々を、覚者、聖者と言うわけですが、人類の多くは感情想念、小智才覚の凄い渦に巻き込まれ翻弄(ほんろう)されてしまうんですね。
 ここで最も重大なことは、大いなる救いの光がないと、それらの渦から抜け出て、本体の大安心の世界、無碍(むげ)自在の世界に戻れないのです。その救いの光こそが、五井先生が提唱された「世界平和の祈り」の救世の大光明ということですね。歴史上のあらゆる聖者・聖賢、真理の道を指し示された宗祖や、全人類を守り給う守護神様方、そして地域の人々を守る氏神(うじがみ)を含む諸神善霊が総結集された無限の大愛なる大光明なんです。このお働きは宇宙に遍満しているわけで、いかなる国の人であっても、どのような場所でも、祈ろうとする瞬間、人類救済の大光明が輝き渡るんですね。
 人間の想いというものはどんなひどい人でも有限のものであって、無限大光明の中に入り続けていれば、やがて無くなってしまうのは必定ですよね。人間は誰もが、心の中をすっきりと、さっぱりさせて生きていきたいと、心の中では願っているんですね。
 そこで雑多な想いや、つまらない感情想念、堂々巡りする小智才覚の想いや、様々な事柄に把われる想い、悩み苦しむ想いの全てを過去世からの業想念波動の消えてゆく姿と思って、「世界平和の祈り」にお返しするんです。そのことは同時に、救世の大光明から、新しい生命、愛、勇気、智恵、大調和の光、平和の気を頂き直すということなんですね。汚れたものを大光明できれいにしてもらって、清浄なる無限のエネルギーを頂戴するわけですから、これほどありがたいことはありませんよね。
 こう書きますと、世の中の知性的な人や自己中心的な人には、そんな調子の良(い)
い話なんてあるものか≠ニ思う人もあるかもしれませんが、これこそ逆立ちした考えなんですね。自分が親から生まれたことを否定しているのと同じようなもので、人間は神の生命(守護の神霊を含む)によってこの世に生み出されているのです。今この一瞬も、尊い生命の力によって存在しているわけで、いやそんなことはない。自分の力で生きている≠ニ思う人は、一週間に一度、心臓や血液の流れを休ませてみることですね。お母さんのお腹から明日、生まれることは出来やしないんですね。
 こう申しましたが、地球大進化の今の時代は、それらの人達も包み込んで救世の大光明のお働きが為されているのです。否応なく、全人類が天命完うの方向に運ばれているんですね。救世の大光明のお働きとはそういうもので、宇宙運行の大能力と等しいのです。

 正しい思い方について
 
 人間というものは長い間の思い方の習慣で、言葉の意味の取り違えが色々あるんですね。少し例を出してみますと、「頑張りなさい」ということを良く言いますね。この言葉を聞くと、大抵の人は想いを強め眉(まゆ)の間にしわを寄せて物事をしていきますよね。意志力の強い人はある所までは出来るかもしれませんが、周りの人を真に生かすことは出来ないんですね。こう捉えるのは無理からぬことで、辞書には頭をかたくな≠ニ説明しているんですね。
 しかしこの字の左の元ははじめ≠ニいう意味で、右の頁はまるい頭≠ニいうことなんですね。本来の意味は、初めの円満具足なる人≠ナあって、本心そのものと言えるんですね。本心は即ち光明であり笑顔の響きでして、眉の間を伸ばして物事を愛して事に当たるということなんです。この姿勢でいくと周りの人達も自然に活気が出てきますし、絆(きずな)の心も自然に生まれてきて、本当の発展の道が開いてくるわけです。
 「働く」という言葉があります。これは決して、やみくもに動き回るということではありません。自分の想いのまま仕事をするというのでは、私心のない人や守護霊様のみ心に沿って動ける特殊な人は別ですが、大抵の人はそういうわけにはいきません。間違いのない在り方は、人の幸せのために働く≠ニいうことですね。これも何々のためにと想いを力ませるのではありません。
 人間というものはこの世に誕生して、親を始め多くの人々の愛によって支えられてきたわけです。自分の周りにある物で、自身が作り出したものは殆(ほとん)どありませんよね。そう考えますと、自分に来ている生命の力を多くの人達の幸せのために使っていきましょう≠ニいうことになりますね。これは自然に生じてくる考えで、何等の力みもありませんでしょう。この心持ちで、あらゆる仕事に当たっていけば、人間関係も円滑になり、全てにおいて良き結果が出てくるでしょうね。ちょっとした捉え方が天と地の差になってくるわけですから、気付いた人は今この瞬間から方向転換されるといいと思います。
 私は仕事柄、色んな人と接しますが、この人は損な生き方をするなと思うことが度々あります。それは「自尊心」ということの大きな取り違えです。この言葉はプライドとも言いますが、自分を偉いと思う心≠ニか誇り≠ニ解釈しているわけです。他人よりも自分を偉いと思う時に使っていますが、これは間違っているんです。自らを尊ぶ心≠ニは、自己を存在せしめている生命という完全性をどこまでも尊んでいくことなんですね。この姿勢に立つと、相手の生命も深く尊べるようになるんですね。
 ところが時々見掛けるのは、前生からの習慣によって、自分は他の人よりも勝っている≠ニ何の根拠もない思い込みの強い人ですね。こういう人は概して神経質で、いつも他の人と自分を比較して、いい悪いと自分を突(つつ)き回しているんです。前生を含む過去世の中で自尊心という根本的に大事なことを錯覚してしまったんですね。これとは逆に、自分は他の人よりも能力があると思い込んでいる鼻持ちならない人≠烽「ますね。これはある意味では勢いがあっていいのですが、周りの人を潰してしまいます。
 この両者はいずれも自分本位であって、本当の自尊心を持っていませんから、真の幸せには至らないんですね。潜在意識層にこれらの想いが強くある人は、生かされている自分≠ニいうことをしっかり見詰め、全ての想いを消えてゆく姿にして、「世界平和の祈り」をじっくりと祈り続けることが大事ですね。
 この項目では何点かの問題を取り上げましたが、又、別の機会に違う内容を説明することにします。

 言葉以前の響きの大切さ
 
 言葉の大切さは一般にも使われますし、「世界平和の祈り」の道を歩まれる人は良く認識されていると思いますが、深くこのことを捉えている人は案外少ないんですね。コトバは即ち神なりき≠ニいうのは、言葉として表面に出てくるものではなく、それ以前の想念の響きのことを言うんですね。ここで言う想念とは、真・善・美・愛の光の波のことです。そうなるには余程の素質の高い人(滅多にいません)であれば別ですが、どんなことがあっても相手の幸せを思える人というのは、そういるものではありません。
 「世界平和の祈り」を根本に相手の神性(生命と守護の神霊)を拝んでゆく生き方ですね。これを普段から心の隅々まで浸透させていく日頃の修練が重要なんですね。天地万物に心底から感謝し、全ての人々を守る守護の神霊に天命完うを祈り、全人類が大生命の光の一筋であることを心底確信していく中から、言葉以前の愛の響きが流れ出てくるようになるんですね。そうなりきれば、コトバの通り、自他を天命完うの方向に自在に誘導出来るようになるのですが、そうなろうと思っても簡単にはいきません。
 そこで全ての想いを消えてゆく姿と思い、守護の神霊と生命への感謝、「世界平和の祈り」のみを相手取っていけば、次第に素晴らしい光の響きが奥から出てくるんですね。この道は実際問題として、ある時は集中してやる場合もあり、又ある時は、ふんわりと神のみ心に融合していく場合もありますね。このように神様との一体感を探求することが即、救世の大光明をあらゆる世界に放射し、真の世界平和を創り上げていくんですね。
 何事でもそうですが、その人の生きる心構えが心の中に充満していくことが根本ですね。日本人というのは魂の中に共助の精神と感謝の心の大事さ、そして大自然との一体感を観じる精神性を備えているんですね。今回の東日本大地震に際しての多くの人々の愛と真(まこと)の行動が、それを示していますよね。「世界平和の祈り」の道を歩む人達は、私は瞬々浄められ高め上げられている≠ニいうことを信じることが出来るんですね。この思い方というのは、自己の神性なることを固く確信する偉大な生き方をしているんですね。
 そのことを心から喜び、感謝の心を深める人は本当に素晴らしい人生を生きる人ですよね。笑顔で生きる、確信を持って生きる、あらゆる生命を尊んで生きる―そういう人達は限りなく神様を発現しているわけですから、どこまでも謙虚な心が深まると共に、大信念で生きる人になっていくわけです。そういう気風を多くの人々に分かち合って進んでいくことが真の菩薩道なんですね。

(風韻誌2011年7月号収録)


   元海先生法話

  1. 講話集
  2. 巻頭言
  3. コスモス問答
  4. 音声