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コスモス会は、五井先生提唱の「世界平和の祈り」を実践しているグループです


世界人類が平和でありますように

 仲春法話 真の自信ある生き方   尾崎元海



 生きる姿勢を明確に

 今回は現実生活においての「世界平和の祈り」の道、「人間と真実の生き方」の実践について、話を絞っていきたいと思います。新しく祈りの道に参加された方、古くから実践されている方も含めて共通することですが、自己の生き方が大確信、大信念になっているか否(いな)かを良く見極めることが大事なんですね。そういたしませんと、自我の強い強引な生き方をする人達(宗教信仰者も含む)に圧倒され、振り回されてしまうんです。それと同時に、自信の生きる姿勢がぼやけてしまい、他に依頼してしまう弱い生き方になってしまうんですね。
 人間は本来神の分霊(わけみたま)であって≠ニありますように、まずは私は神の子、即ち大生命から来た光(個生命)である≠アとを固く信じることが第一となります。このことは、個生命の自分の背後(奥)に無限の愛なる大能力者が控えていらっしゃるということです。太陽が東から上がり西へ沈みますが、このことを心配する人はいませんよね。それと等しく、人間の内に働く力は絶対なる大能力なのです。

 あなたは大丈夫な人

 
 そこで問題になるのは、完全なる智慧(ちえ)能力が内に働いているのに、何故この世の中には不調和な出来事や自己を惑わせる感情想念(業波動)が出てくるのか、ということです。これは内なる生命から発しているのではなくて、肉体と生命体(神霊体)の間にある、幽体に溜まっている過去世の誤った想念や行いの蓄積されたものが、消え去るために肉体頭脳や出来事として現れてきた姿なんですね。
 この業想念波動を小さい形で表面に現して消していらっしゃるのが守護霊様、守護神様なのです。小さい形で≠ニいうのは、その人が積み重ねた業想念の八十パーセントぐらいは守護の神霊が引き受けて下さっているわけです。残る二十パーセントを小間切れにして、浄めて下さっているのが実状なんですね。
 ですから、肉体頭脳に現れてくる不安な思いや感情、自己の神性を否定する全ての想念や雑念などの一切は、現れれば消え去ったのですから、運命はその瞬間、神のみ心に適う光明人生に転換したということになります。ここの所は明確にしていないと、つい、感情想念を自分と錯覚してしまい、混乱してしまう場合があるんですね。

 神性こそ真の自己
 
 「世界平和の祈り」を祈り続けている人は、既に神霊界の住者なのですが、形の世界に次々と不調和な出来事が起こってきますと、私はお祈りが足らないから、信じる心が弱いから、こんなことが起こるんだ≠ニ思って、祈りに対する絶対信の状態から、ずれてしまうことがあるのです。
 大神様の大智慧というのは、守護神・守護霊を通して肉体に働いていらっしゃるんです。表面上にもし不調和な想念や事柄が出てきたとしても、より良い光明生活に入る一歩なのですから、何も不安がらず、恐れることもありません。これで益々運命が良くなる。勇気も智慧も力もうんと出てくる≠ニ、神と一体の自己を深く信念していけばいいだけなのです。
 守護の神霊は、愛する我が子を痛め付けようとなさることは決してありません。前生の生き方の誤りを業を浄める形でその人に知らせ、本心(神)こそが真の自己であることを体覚させんとしていらっしゃるだけなのです。
 「世界平和の祈り」というのは、私は神様と一体です≠ニいう神我一体の大光明世界に融け入った境地なんですね。だから唯々、私に与えられた天命が更に完うされていくんだな。守護霊様の智慧、神々様の叡智が限りなく現れてくるんだ。神様ありがとうございます≠ニ、神性のみを固く確信していけば良いんです。

 腹を据えて生きる
 
 人はそれぞれの環境があり、与えられた仕事があります。それがどうあろうと、守護霊・守護神様のみ心によって置かれていることは間違いないんです。何でこんな仕事をしないといけないんだろう≠ニか私だけどうして苦しい環境に置かれているのか≠ニいう想いの人もいるかもしれません。
 しかしそこで腹を据えて、守護霊様・守護神様が私の本心開発のために一番良い場所へ置いて下さっているんだ≠ニ思うということが大事ですね。それが守護霊様に素直な姿勢であって、そこで全力を出して生きることが、その後の発展に繋がっていくわけです。
 全力を出すと言いますと、一般には遮二無二(しゃにむに)やるということですが、祈りの道を生きる人は、守護の神霊に感謝し、ああして、こうして≠フ想いの全てを「世界平和の祈り」の中に入れ、そこから出てくる考えで物事に当たっていくわけです。当然のことながら、自己の天命完うを確信しながらということですね。
 例えば会社員が営業活動をするとします。上司から言われる課題が高いと、普通は焦ったり力んだりしますよね。ところが祈っている人は、この仕事が会社の天命完うの道でありますように。我が天命が完うされますように≠ニ、守護霊様を確信して進みますから、結果的に最も良き方向に行く、という確固たる信念を持っての行動となるんですね。仕事というのは、このように奥の全智を信じきって、あらん限りの努力をしていくことですから、悔いが全く残らない生き方になるわけです。

 全ては良き方向に運ばれる
 
 このケースとは別ですが、体調が悪く、お医者さんにこういう病気で、後何年ぐらい≠ニ言われたりすると、大抵の人は落ち込んでしまいますよね。しかし光明思想を実践する人は、これとは反対に、体調が悪く感じたとしても、これで前生の病念が消えて、うんと丈夫な体になる。益々いのちが活発に働き出すんだな。何てありがたいことだ≠ニ、内なる生命の全能を固く信じ称える気持ちが旺盛(おうせい)になるんです。
 こういう心境でいると、次第に体力がしっかりしてきますし、もし仮に病院へ行っても、天寿以外のものは全て治ってしまうんですね。こういう場合、不安な想いが出るたび、即座に神様ありがとうございます≠ノ徹していると、不思議な癒しが為されるんです。これを神癒(しんゆ)と言って、神様のみが生きているという真理に即した生き方なんですね。
 観点を変えて、対人関係のトラブルを考えてみましょう。このことに振り回されている人は実に多く、犯罪行為にまで走ってしまうことも多々あるようです。人間同士の出会いというのは、実は全て過去世(前生も含む)の因縁によるんですね。主に前世ですが、何らかのお互いの想念行為の絡(から)みがこの世で結果として現れているわけです。これは自然の法則と同じで想念の法則なんですね。
 ですから、出てくることは良いとか悪いではなく、如何(いかん)ともしがたいことなのです。ということは、それらの出来事を真面(まとも)に相手取るというのは、幻を相手にしているようなもので、本当は意味がないということになります。まず、ここの所をはっきりさせないといけませんよね。

 全ての出会いを光の縁に
 
 ところが実際問題として縁の深い(善悪両方)人に対すると、心の中から何らかの強い感情想念が出てくることがあります。そこで、その一切の想いを消えてゆく姿として「世界平和の祈り」に投げ入れるわけです。そうしませんと、強い意思力で一時抑えても、時間が建つと利息付きで爆発してしまいます。その反対に、出てくる感情想念を本物と思ってそのまま行くと、業想念が益々増えていくということになるわけです。
冷静な心で物事に対処せよ≠ニいう言葉があるように、霊性(本心の世界)に立ち戻って人に接する、ということが本来の在り方ですね。「人間と真実の生き方」を信じ実践する者にとっては、業想念を相手取らず、本心のみ、神様だけを相手取って生きる、ということになります。
 対人関係というのはどのようであっても、相手との縁が光の縁になりますように、という祈り心で接することですね。この方の天命が完うされますように≠ニ、相手の守護霊様に感謝しながら祈るわけです。
 これはあくまで基本の姿勢ですが、相手によっては実に面倒臭いというか、ややこしい場合もあります。こういう時は多少時間が掛かるかもしれませんが、お互いの業が一日も早く消え、この方の本心が一日も早く現れますように≠ニ守護の神霊に祈り、それらの渦を「世界平和の祈り」に入れ続けるんですね。そうしていると、やがて如何(いか)なる因縁といえども浄まり去ってしまいます。

(風韻誌2009年3月号収録分より抜粋)


   元海先生法話

  1. 講話集
  2. 巻頭言
  3. コスモス問答
  4. 音声